要因

また1792年ラクスマンの来航事件が起き、1793年南部藩は幕府から兵を出し根室と函館の守りを固めるように命じられた。このため、南部藩の財政の負担が増加していた。さらに1805年幕府から蝦夷地警護松前出兵の功績によって10万石が加増され、石高20万石の大名となった。しかし、これは現有領地のまま20万石に加増されたもので、実質収支があがらないのに20万石相当の軍役を負担することになり、藩財政が窮迫した。

盛岡南方一揆

連続する大凶作のなか、南部藩の度重なる御用金の賦課や藩札の乱発行によるインフレーションなどに対し、御用金の免除などを要求し各村々がめいめいに強訴を行った。南部藩は一旦要求を受け入れたが、一揆解散後約束を取り消し、首謀者を処罰した。また、政治は一揆以前と何の変化もなかった。 さらに1837年初め。盛岡南方一揆(仙台越訴)が発生する。前年の一揆に対し領民は仙台に逃散し、南部藩を非難した。南部藩は一揆衆を取り戻すため、首謀者を処罰しないことを約束し、仙台藩は幕府に内密にすることを約束した。しかし南部藩は一揆衆を取り戻した後、約束を破って首謀者を処刑した。このため領民は南部藩を軽視するようになった。その後、南部藩は目安箱を設置した。